Seneca

叡智によって、激動の世の中を生き抜こう

仏教について~サボることは悪~

私の考える原始仏教の3大テーマとして、①禁欲主義 ②平和主義 ③努力主義があります。今回は、③努力主義について解説していきたいと思います。

ある作家さんが、「仏教はがんばらなくていい教えであり、努力否定主義」といっておられた気がします。長年、「仏教ってそんなものだったんだ」と思ってました。

でも、『スッタニパータ』を読んでいて、ちょっとこれは違うかなと思ったわけです。

こんな言葉があります。

おこた りは塵垢ちりあかである。怠りに従って塵垢がつもる。つとめはげむことによって、また明知によって、自分にささった矢を抜け。』(中村元訳『ブッダのことば』岩波文庫 1984年 p70)

 

全体的に、「精進すること」「努力すること」はOKで、「怠けること」はかなり厳しく戒められている印象なのです。「ほどほどでいいよ、自分なりのペースでいこう」みたいな言葉があまりないような・・・。

 

と、いうことなので、仏教は努力主義といえるのではないでしょうか。

なんか最初は、仏教=「楽できる教え」みたいなイメージもあったのですが、ぜんぜんそんなこともなさそうなんですよね。けっこうそういったイメージで仏教を語っておられる方もいるような気がします。

理由を考えてみました。

 

①仏教はそもそも俗世間を離れて修行する教えだから、「世俗の仕事に対して努力すること」に否定的である。その流れで「努力することそのもの」に否定的になってしまう。

釈尊の仏教教団に入るには、世俗の仕事も家族も捨てて、出家しなくてはなりません。

もちろん、在家の人々も修行して悟りを得ることは可能だったらしいのですが、出家した人のほうが修行に専念できるわけだから、悟りを得やすいですよね。出家する人にとっては、世俗の仕事は軽視されます。金儲けをしようとして、あくせく働くことは、何の価値もないことになるわけです。

だからといって、仏教の「修行」そのものは、サボってはならないわけです。経典にあるように、努力して、一生懸命しないといけないわけです。

ここのところで誤解が生じてしまうのかなと。

なんとなく、多忙をよしとする勤勉思想のようなものへのアンチテーゼとして、仏教の教えが掲げられることが多いような気がします。仏教思想によって、世俗の価値観を相対化できるのも事実だとは思いますので、過労で苦しんでいる私のような人間には(笑)ある程度救いになるとは思います。世間一般では、「仕事をがんばれない人間はダメな奴と」という価値観がありますからね。

それはそれでよいと思います。

しかし、何かを頑張ること自体、否定はしていないと思います。努力は大切だといっていると思います。

 

②仏教は「安らかな境地」をもとめる教えだから、「安らか=楽して修行していい」って解釈になるのかも。

原始仏教を実践する人の到達点は、「悟りを開いて、安らかな境地に至る」ことだと私は現時点では解釈しています。

ブッダのことば』にも、修行をおさめると「安らか」になるみたいなことがたくさん書かれています。

しかし、これはもちろん修行をサボって楽していいということではないですよね。ある程度たいへんなこともたくさんあると思いますが、それらを乗り越えて、大変な修行を楽しめるようになって、初めて「安らか」になれるということではないでしょうか。最初から楽して「悟り」を開けるのであれば、そもそも出家する必要もないわけですからね。サボるのも一種の「安らかな境地」なものなのでしょうが、努力をしたうえでのそれとはかなり違っているものなのでしょう。

 

と、いうわけで、原始仏教は根本的に努力主義ではないかと思うわけです。

 

と、ここまでいろいろと書いてきたものの、あくまで個人の感想です。

どうもここらへんの釈尊の真意をつかむためには、「安らぎ」とか「怠惰」とか日本語訳されている単語を分析する必要がありそうです。それには、原典のパーリ語などに精通しないとなかなか難しいようです。うーーむ・・・機会があれば、中村元先生以外の先生の訳したスッタニパータを読んでみて、語句の訳し方などに気を付けながら、分析してみたいですね。

 

今日はここまでにしたいと思います。