Seneca

叡智によって、激動の世の中を生き抜こう

原始仏教について謎なこと

原始仏教はマインドフルネスなどの影響もあって、そもそもいろいろな書籍も出てますし、解説したサイトもたくさんあります。ただ、素人目線からいって、根本的に謎なことがいくつかありまます。そんで、けっこう大事なことだと思うのですが、なかなかそのことに触れられてないことが多い気がします。今回はそのことについて、書いていこうと思います。

 

疑問① 

そもそも釈尊とそのお弟子さんたちは、どんな生活を送り、どんな修行をしていたのか??

疑問①についての説明

俗世を捨て、托鉢していたことはわかるのですが、そもそも悟りに至るために、どのような修行をしていたのでしょうか??だいたい、マインドフルネスなんかの源流は原始仏教なんかにありそうなので、原始仏教教団でも、主にじっと座って瞑想する修行を重視していたと思います。しかし、いったいどのような修行をしていたかは、『スッタニパータ』などを読んでもわからなくないですか?原始仏教の教理としての「四諦」「八正道」などの解説をした書物やサイトはたくさんあるのですが、現実に釈尊やその弟子たちが、朝起きてから夜寝るまで、どのような修行をしていたのか、ということはなかなか詳しく解説されてないと思います。おそらくなかなかわからない、というのが現状だとは思いますので、仕方のないことかもしれませんが・・・。私も勉強不足なので、もっと調べてみようとは思うのですが、論文などにあたらないとわからないかもしれませんね。

 

疑問②

苦行ってふつーに大事にされてたと思うのだが、なんで仏教=苦行の否定というイメージになっているのか??

 

疑問②についての解説

釈尊は、苦行を6年くらい経験し、徹底して苦行の無意味さに気づき、スジャータの乳粥をもらって元気になり、菩提樹の下で悟りを開いた」というのは一般的に語られる悟りへのストーリーなのですが、これをもって、仏教では苦行を完全に否定していると解釈するのは、すこしおかしいのではないかと思うようになりました。

もちろん釈尊の苦行に否定的な言動も確かにあります。

しかし、それとともに、原始仏教では明らかに苦行を肯定している記述もけっこうあるのです!!

おそらく修行の中に苦行を残しつつも、心身に深刻なダメージを与えるような苦行は禁止していたのだと思います。そのため、苦行に関する相反した記述があるのだと思います。

現在の大乗仏教寺院でもほとんど苦行に近いことを行っているところもありますよね。ああいう修行の批判として、「お釈迦さまは苦行を否定しておられたのに、日本の仏教徒はやはりお釈迦さまの教えとやっぱり違っている・・・。」みたいな批判もきくものの、あれはあれでひとつの悟りへのひとつの修行の仕方なのだと思います。

苦行に関して、危険な反面、心身を清浄にする効果もあったことは事実だと思います。

スポーツなどでもハードなトレーニングをすると、そのときはきついけど、そのあとけっこう爽快な気分になったりします。苦行もこれと同じで、肉体に苦痛を与えることによって、余計な雑念や妄想を吹っ飛ばす作用があったのではないかと予想します。

とにかく苦行に関しては、なかなか一言では片づけられない問題があると思っていますので、いず取り上げたいと思います。

疑問③

神通力については、どのように考えられていたのか??

 

疑問③についての解説

神通力とは、一種の超能力のようなもので、凡夫にはわからないレベルで世界のことを見通したり、人の心を読んだり、人の過去世についてみることができる、といったもので、ぶっちゃけかなり怪しい気がします。実はまだ読んでいないお経ですが、原始仏典の「堅固経」という教えは神通力を否定している話らしいです。とはいえ、十大弟子モッガラーナなどは「神通第一」という称号だったそうなので、神通力に対して必ずしもマイナスにとらえていなかったという見方もできます。マイナスなものであれば、そもそも弟子たちの称号に使われるはずがありません。神通力に対するスタンスもなかなかはっきりしていないかんじがします。苦行と同様に、取り上げ方が矛盾している概念ではないでしょうか。

 

と、いうことで疑問になった点をまとめてみましたが、そもそも仏典はたくさんあるので、いろんな人がいろんなかたちで伝えているので、まあ当たり前かもしれませんね。本当のところを知りたければ、やはり学者の書いた論文を読んで判断するのが一番なのでしょうが、なかなかアクセスできずらい状況ですよね。あと、仏教は実践の宗教ですので、本当はこんなに細かいことはどうでもいいことなのかもしれませんが、知的好奇心を満たすことも大切だと思っています。

今日はここまでにします!!!