Seneca

叡智によって、激動の世の中を生き抜こう

苦行についてまた考えた

原始仏教と苦行の関係について、前回の続きを勝手に書いていきます。

全部独断と思いつきなので、学術的な根拠などはまったくありません。

 

古代インドにおいての苦行は、身体的な苦痛という大きな「刺激」をわざと自分へ与えることで、心をむりやり清浄にする取り組みだったと思います。

一国の王子だった釈尊は、大多数の人間には体験できないような贅沢な経験をしたに違いりません。しかし、それでも生きる悩みを払拭することはできなかった。そこで釈尊も出家し、当時の修行者と同じように苦行に取り組んだわけです。

苦行をすることで、その瞬間は生きる苦しみや死への不安、世俗の欲望などは払拭されたに違いありません。

なにしろその瞬間は苦しいですから。

止息行といって、息を止める修行がありますが、その間に悩みを感じてる暇ありませんよね。

だから、苦行をして徹底的に心身を痛めつけた直後は、心が清浄になった実感が得られたと思います。『スッタニパータ』にも、苦行によって心が清らかになったとかいうエピソードが紹介されていました。

しかし副作用も当然あったと思います。

激しい苦行は心身に悪影響を必ず及ぼすはずです。

しかし古代のインド人たちは、苦行に取り組む自分たちを誇らしく感じていたために、それに対して疑問をもたずにいたのでしょう。

また、極限まで苦行をすると脳内ホルモンが出てかなりの快楽を感じることが可能になる、とも聞いたことがあります。

古代インド人たちは、脳内麻薬でハイになりながら、苦行をしている自分たちに酔いしれていたものもたくさんいたのではないでしょうか。

心身にとてつもないダメージを与えつつ・・・

苦行というとてつもなく大きな「刺激」を心に与えることで、苦行中毒者になってしまい、廃人になったり、そのまま死んだりしたものも多かったことでしょう。

つまり、心を清浄にするはずだった手段としての苦行が、目的化してしまったのです。

釈尊は「苦行は手段としては良い。しかし、苦行それ自体を目的化して、死んでしまったりしては元も子もない。」と考え、命がけの苦行などは捨て去ったのでしょう。

そうして、比較的負担の軽い苦行は残しつつ、修行に励み、ついには悟りを得たのではないかと・・・。

仏伝とかでは苦行を捨てて、菩提樹の下で瞑想して悟りを得たみたいにいわれていますが・・・・

このエピソードを全面的に信じるのは、やめるべきではないかと考えています。

激しい苦行は捨て去ったが、心を清浄にする手段としての苦行は残しつつ、瞑想に励んだ、というのが事実だったのではないかと思います。

そのうち、教団が拡大するにつれて、修行もだんだんとオブラートになっていき、いつの間にか苦行を否定する風潮が生まれていったのではないかと考えます。