原始仏教における苦行①
釈尊は出家してからは、瞑想修行をして、その後苦行を始めました。その後苦行の無意味さに気づき、やがて菩提樹の下で悟りを開くことになります。
一般的には、釈尊の生涯はこのようなかたちで伝えられています。
このことから、仏教は苦行に対し否定的であると思われています。
しかしながら、原始仏典におきましては、苦行はしばしば肯定的に扱われています。
真の苦行、清浄な禁欲生活(梵行)、尊い真実(聖諦)の直観、涅槃の体得、これが幸福を呼ぶ。
荒牧・本庄・榎本訳『スッタニパータ』講談社文庫 2015年p81)
このことから、原始仏教においては、苦行は普通に修行のひとつとして大切なものだったのではないかと思っています。
心を清浄にするうえで、あえて身体を痛めつけるということは、ある程度有効なのは認めざるを得ません。例えば、スポーツなどで激しい運動をすることである程度気分がすっきりするであろうことは、たいていの人はわかっていると思います。
また、金峯山寺などで千日回峰行が行われていたりして、そうしたものは命がけの修行といえますが、苦行を肯定的にみた原始仏教の名残があるのだと思います。
ちななみに、面白いことに、『スッタニパータ』中村訳では、上記の荒牧・本庄・榎本訳では苦行と訳されている部分を「修養」と訳しています。どうも、中村先生には苦行という言葉を使いたくなかったのではないかと考えます。