Seneca

叡智によって、激動の世の中を生き抜こう

原始仏教における苦行②

いろんな資料から推察するに、なんとなく、苦行は原始仏教においてかなり大切な要素だったのではないかと感じています。その一方で苦行に関する否定的な記述も気になります。

なぜ原始仏教では苦行における矛盾した態度があるのだろうか?

 

自分なりに稚拙な仮説をつくってみました。

平たくいうと、原始仏教における実践は、サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想の2つです。

サマタ瞑想は、何かひとつのものに意識を強く集中させ、心を平静に保つ修行です。呼吸をしていることにひたすら気づく修行はこれですね。吸っているときは「吸っている」と気づき、吐いているときは「吐いている」と気づいていきます。とにかく呼吸という一点に意識を集中していくわけです。

また、ひたすら一歩一歩意識を集中させながら、歩く、というものも同じくサマタ瞑想になるそうです。別のことに意識を振り向けず、ひたすら歩いてることに意識を向けます。

サマタ瞑想はとにかく一点に集中することが大切ですね。

一方ヴィパッサナー瞑想は、そのとき身体に感じているものをすべて認識していく方法になります。例えば静かに座っている状態で、何か外から音が聞こえたら「聞こえている」、お尻に痛みを感じたら「痛くなっている」、雑念を感じたら「雑念が浮かんできた」というように、意識を全方面に向けていくものです。サマタと違い、忙しいものだそうです。

この2つをうまく組み合わせることが原始仏教の修行です。

そして、苦行は実はサマタ瞑想のひとつだったのではないでしょうか?

何かに苦しんでいるときは、実はほかのことはどうでもよくなるものです。

虫歯でずきずきして痛いとき、あまり足の痺れなどに関心がいきません。

空腹で食べ物が欲しくてたまらないとき、嫌なやつのことはあまり思い浮かべているひまはありません。

息を止めて苦しいとき、将来の不安を考えているひまはありません。

 

単純にいうとこういうことで、苦行というのは身体に強い負荷をかけることだったのだと予想できますから、これにより、余計な雑念などはすっ飛ばしてしまう効果があったのだと考えられます。すなわち、煩悩を吹きとばす強力なツールだったのではないでしょうか。

その反面、身体に対して著しくダメージを与えて修行の継続を困難にすることもあったのだと考えられます。それによって病気やけがを引き起こしていては、修行どころではありませんからね。諸刃の剣だったのでしょう。

そのため、比較的軽めの苦行は残しつつ、身体にダメージを与えるような激しい苦行は

教団の拡大とともに、身を潜めていったのではないでしょうか。しかし、釈尊や教団初期の古参メンバーのみが命がけの苦行をこなしていたということは伝えられていきます。そんな中、時折そうした先輩方のまねをしようと軽い苦行では飽き足らずに、激しい苦行にチャレンジする無鉄砲な弟子が発生していきます。それを戒めるために、苦行に対する否定的な言い伝えも生み出されていったのではないでしょうか。

しかし、身体的ダメージの少ない苦行は、大切な修行法として、残されていきます。

これによって苦行における矛盾した言説が伝えられていくことになります・・・。

 

と、いうわけで完全に独断で推理してみました。

今日はここまでとしたいと思います。