Seneca

叡智によって、激動の世の中を生き抜こう

再び苦行について考える

なぜか原始仏教と苦行の関係について、非常にこだわりがありまして、いろいろと考えました。・・。

別に苦行したことがあるわけでもなんでもないのですが・・・。

ネットなんかでは、釈尊は苦行を放棄した、捨て去ったみたいな文章があまりに多い気がします。

確かに仏伝なんかではそういうことになっており、苦行を捨て去ったことになっているわけであります。手塚治虫の『ブッダ』なんかもそうなっています。

しかし『スッタニパータ』なんかでは普通に苦行について肯定的に書かれている部分があるので、

そうそう安易に仏教=苦行否定と決めつけることはできないと思っています。

(そもそも、苦行をどう定義するかの問題もありますが・・・・それはまたじっくり考えてみなければなりません。)

仏教を専門的に学んでいる方にとってはレベルの低い話かもしれないですが、私は素人ですので、素人なりに、こんな風にかんがえました。

苦行は強力な「刺激」を作り出して、むりやり心を清浄にさせる試みだったのではないかと・・・。

この「刺激」というキーワード、現代の原始仏教の伝道師ともいえる小池龍之介さんの本を読んで注目したものです。小池さんは原始仏教の思想を現代人の文化やライフスタイルに直接絡めて、わかりやすく説かれるので、とても参考になります。最近は、作家活動はあまりされておられない様子ですが。)

 

小池さんによりますと、心は刺激を与えれば与えるほど、それが習性になってしまい、より強い刺激を求めるようになると主張されておられました。お菓子を食べたりとか、ギャンブルとか、ゲームをしたりとか、現代は刺激にあふれていますね、確かに。

油断すると、お菓子の食べ過ぎで病気になったり、ギャンブルで破産したり、ゲームのし過ぎでひきこもりになったり、刺激には注意しなければならないわけです。

小池さんはそうした刺激の奴隷とならないよう、農作業をしたり、食べ物をよく噛みしめたり、そういった単純作業なんかを推奨しておられた気がします。

こうした作業は刺激中毒になった心を健全にさせる作用があるようです。

さて、釈尊と同時代の古代インド人たちはみなやっきになって苦行にいそしんでおったようです。

断食をしたり、呼吸を止めたり、灼熱の太陽のもとにずっと身をさらし続けたり・・・・

それは心への大きな大きな「刺激」だったのだと思います。

苦行はサマタ瞑想の一種だったのかもしれないとか前に書きましたが、おそらく苦行の本質は、大きな刺激を作り出して、心を強制的にほかの小さい刺激から解放させる試みだったのではないかと思います。

 

続きは時間がないので、次回としたいと思います。読んでいただいた方はありがとうございました。